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海苔とは

海苔とは

海苔は、「紅藻類 ウシケノリ科 アマノリ属」に属する海藻の一種です。

アマノリ属は約30種類あり、その中で食用になるのはスサビノリ、アサクサノリ、

ウップルイノリ、カイガラアマノリなど。

日本の養殖海苔のほとんどはスサビノリです。

 

海藻類は光と乾燥を嫌い、日光のあまり届かないところに生息しますが、

海苔のように海面すれすれのところで生長する海藻はとても珍しく、

他の海藻類とは違う独特の性質を持っています。

 

海面付近で成長することにより、他の藻類には見られない豊富なタンパク質、色素、ビタミン、ミネラルを

含むようになった地球上で初めての植物といわれています。

 

この写真は顕微鏡で見た、

海苔の「糸状体」です。

​これが海苔の種になります。

​詳しくは順番にUPしていきます!

海苔ができるまで

​編集中、近日順番に公開していきます。

 

海苔年表

四世紀初め(弥生時代)

海苔について書かれた一番古い書物として「常陸国風土記」(ひたちのくにふどき)があります。

その中の一説には、このようなことが書いてあります。

「古老の日(い)へらく、倭武の天皇 海辺に巡り幸(いでま)して 乗浜(のりのはま)に行き至りましき。

時に浜浦(はま)の上に多(さは)に海苔〔俗(くにひと)乃里(のり)と云ふ〕を乾せりき。」

 

要略すると…

「倭武(やまとたける)の天皇が海辺を巡幸したとき乗浜の里には沢山の海苔がほしてあった。

海苔の多くを乾かしてある地を、「乗浜」(のりはま)と名付けた。と記録されています。 

ここには三種の海藻が書かれていますが、そのひとつはおそらく塩を作るためのものであったと思われます。当時の製塩法は「藻(ホンダワラ等)の上に何度も海藻を降り注いで乾燥させる。そしてその藻を焼く。できた灰を濃い海水に溶かしてさらに煮詰める。」でした。(海藻は塩の母であったわけです。)

この海藻焼きはその後もずっと続けられ、海岸の風物詩として永く人々に親しまれてきました。

奈良時代(710~794)~平安時代(794~1185)

701年2月6日から始まった日本で初めての法律、大宝律令が制定されました。

朝廷(天皇を長とする政府のこと)への年貢制度(納税)も始まりました。

28種類の海産物の中に、8種の海藻があり海苔は他の海藻と比べて高い貢納性を持っており、

アワビと並んで海産物の中で最高級の位置にありました。

●男子が年間納める量

・ムラサキノリ(紫菜)・・・49斤(紫菜=海苔)

・アラメ(滑海藻)・・・360斤

・コルモハ(凝海海藻)・・・120斤

・ナマカシ(海藻根)・・・8斗(8000斤)

・ニギメ(海藻)・・・130斤

・カジメ(未滑・ミル(海松)・・・130斤

記載によると納める種類ごとに量が定められていて、少ないものほど高級であったといえます。

※海苔が第一級品だったことが分かる。(ちなみに一斤は約670g。)

710年、平城京が開かれると市が設けられ、そこには海藻類を売る「にぎめだな」(たな=店)、

海苔や昆布を佃煮のように加工したものを売る「もはだな」が設けられました。

しかし海苔が市場で売れていたとはいえ、やはり庶民には高嶺の花で上流階級の貴族のごちそうだったようです。

 

平安時代の貴族にとって海苔は最貴重品として扱われていました。

冠位が五位より上の貴族にのみ支給されており、庶民には無縁のものとなっていたようです。

この頃、海苔はまだ養殖もされておらず、岩や貝殻、流木などに付着したものを収穫していました。

鎌倉時代(1185~1333)

鎌倉時代に入ると武士の生活も変わり、質素で力強い文化が栄えました。

食文化も大きく変化し、これまで朝廷の公家や貴族たちの贅沢な食生活は改められ、質素倹約な精進料理が完成していきました。

日本の伝統食材をふんだんに取り入れた精進料理でも海苔は珍重されていました。

 

鎌倉幕府が開かれると伊豆の名産品である海苔が一躍脚光を浴びます。

「吾妻鏡」によれば鎌倉幕府を築いた源頼朝は、4回にわたって京都の後白河法皇に海苔を献上したといわれています。

室町時代(1336~1573)~安土桃山時代(1573~1603)

室町時代になってから、僧坊料理の中でも海苔は認められてきました。

ちょうど、茶の湯(抹茶をたてて楽しむこと)が成立した頃です。

料理の後の喫茶に必ず食べられたものに「茶の子」があります。

串かき、のり、くり、むすびこぶ等の「木の実」「海藻」「豆類」で、これは同じようなお茶請けとして、

それまでの中国風と比べ、全くの日本風でした。

色々な記述から浅草で海苔が採れ始めたのは、1590年、徳川家康が江戸入りした頃ではないかといわれています。

諸説あり!

浅草海苔」と呼ばれるようになったストーリー

​【諸説1】

安土桃山~江戸時代(1596~1615)にかけて、徳川家康は浅草寺の復興を計ろうとして五百石の寺領を寄付しました。

江戸市街地の大造成も行い、諸国から人々を蝟集し1620年代には人口が100万人に到達しました。

浅草寺周辺も急速に往時の繁栄状態に戻り、賑わう門前市において「是ヲ浅草海苔トモ云」(コレヲアサクサノリトモイウ)と説明がされていたそうです。

名物ではなかったが江戸時代初期には、なんとも強烈な印象を人々に与えたらしく、

いつのころからか「浅草海苔」という言葉が生まれていったという説。

 

​【諸説2】

浅草海苔の命名者は天海!?

東叡山の末寺として登録された浅草寺は、かねて恩義のある天海大僧正に新鮮な海苔を寄進しました。(天海大僧正は浅草寺復興を徳川家康に勧めた為)

天海は諸大名や高級武士に「浅草海苔」として提供して、大いに称賛を受けて浅草海苔となったという説。

天海が浅草から取り寄せるノリを好み、各方面への贈答に用いたことは間違いないと言われています。

裏付けとして、このころ浅草には海苔問屋が次々に名乗りを上げはじめ、その内5軒が「東叡山御用」なる看板を揚げていたことが残っているからです。

江戸時代(1603~1868)

江戸の中期頃になると、採った海苔をそのまま広げて乾かす製法が完成し、「展延法」と言われました。

江戸時代の品川沖は品川海苔の産地でした。

江戸前寿司に利用されたか定かではないが、煎餅に海苔を巻いた海苔巻き煎餅は「品川巻き」と呼ばれ、古くから名物となっています。

また浅草海苔は希少な高級品となっていたため、庶民にはまだまだなじみのあるものではありませんでした。

 

●海苔の養殖

江戸の後期以前に、海苔は養殖されるようになりました。

とはいっても、今の様な養殖方法とは全く異なります。

木の枝を海にさしただけのものでその木に海苔が付きそれを摘みとっていました。それが養殖の始まりです。

海苔の加工方法も変化し、そのころ江戸では紙すきの文化が広がっており、和紙の製紙技術を用いて海苔を細かく刻んで、紙状に加工する「すき製法」が行われるようになりました。

これが浅草海苔の起源で、現在市販されている板海苔が完成します。

​でも!浅草海苔が完成したのは浅草では無かった!!!

●大森の海苔漁師は浅草出身!?

貞享4年(1685)、江戸幕府5代将軍の徳川綱吉は「生涯憐れみの令」を発布し、

それに関連し、元禄5年(1692)には浅草近辺で十六丁四方の漁業が禁止されました。

浅草の漁師達は、収入の道を断たれる前に、故郷を捨てて船を保留できる川がある江戸の南、大森に移住しました。

大森では川に打った杭に多くの海苔が付くことに気が付いた野口六郎左衛門は、浅草の地場産業であった紙すきの技術を試してみました。

海苔を細かく刻み、シート状に仕上げられた海苔はそれまでにない製品に仕上がりました。

これを浅草の商人に販売を依頼したことで「浅草海苔」の名前が付きました。

彼らは菩提寺を大森にあった寺に移したものの、浅草神社の氏子ではありつづけたため、

浅草神社にその記録が残されています。

●海苔養殖技術を広めた人々とは。

江戸時代後期には、大森の海苔養殖技術が信濃諏訪の海苔商人の行商を介して日本全国に伝わりました。

 

 

諸説あり!

「海苔ヒビ網」と呼ばれるようになったストーリー

~養殖されるようになったきっかけと海苔ヒビ網の由来~

【諸説1】

江戸時代、将軍様に毎日さしあげる魚を海の中の「いけす」で飼っていました。

このいけすは、「そだ」と呼ぶ木の枝や竹で造った棚に囲まれたもので、日々さし上げる魚を囲うことから「ヒビアミソダ」と呼ばれていました。

そして、この「いけす」に海苔が付き「もしかして海の中に木を立てれば海苔が生えるのではないか!?」と考えられ、木の枝を海にさしてみたところ・・・やはり、海苔がつきました。

これが養殖の始まりでその枝を「ノリヒビ」と呼ぶようになりました。

 

【諸説2】

ノリヒビを建て込んでいた場所が日比谷で、日比谷にある網だからヒビ網と呼ばれるようになったという説。(当時、今の日比谷付近は干潟で潮が満ちてくると膝まで沈んでしまう海で、そこにイケスが作られたそう。)

【諸説3】

ヒビ網には、網を管理するための日比屋があった。そのことから日比屋→日比谷になったという説です。

明治時代(1868~1912)

庶民が気軽に海苔を食べられるようになったのは明治の後半になってからだそうです。

昭和時代(1926~1989)

★2月6日は海苔の日!

大宝2年(702年)に執行された大宝律令の中で、海苔が産地諸国の物産に指定され徴収されたという記録にもとづき、昭和42年に執行の始まりである2月6日を「海苔の日」と定められました。

 

●ついに海苔養殖のパイオニア!現る!!

海苔養殖が開発される以前の海苔生産は、海苔の胞子は海の中を浮遊し海岸の岩場に付着して夏を過ごし秋口に胞子を出すと思われていました。

そこで竹ヒビや海苔網を張り、それに自然に海苔芽が付着して成長を待つことが海苔生産の技術で、採れることもあれば採れないこともあり、海苔の生態が分からなかったため経験則を頼りとしており、その不安定さから「運草」とも呼ばれていた程、安定的な生産が難しい海藻でした。

 

●第二次世界大戦後1949年、イギリスの海類学者、キャサリーン・メアリー・ドゥルー=ベイカー女史が海苔の糸状体を発見!

それまで不明とされてきた海苔のライフサイクルが解明されました。

 

(以下、「新 海苔ブック(基礎編)より」

その後、1955年(昭和30年)に、この論文を読んだ日本の研究者である熊本県水産試験場の太田扶桑男(おおたふさお)技師がノリが糸状の生物に変わって、夏の間貝殻に潜り込んで棲息し、秋に胞子となって海に出ていくことを証明しました。これによりノリの越夏生態が解明されました。

日本人はドリュー女史の発見を参考にしてノリの生活史を完成させ、ノリ養殖という世界に類をみない一大産業にまで発展させました。

 

1962年頃には愛媛県西条市玉津にて、アサクサノリの変種であるオオバアサクサノリ

1970年頃には千葉県柚ヶ浦町奈良輪にてアサクサノリとは別種のスサビノリの品種であるナラワスサビノリがいずれも養殖業者の手で確立され、これらの病気に強く育てやすい養殖品種が普及することで、アサクサノリ野生種の養殖はされなくなりました。

海苔の由来

海苔は日本にまだ文字がなかった頃に創られた大和言葉。

古来より海藻類の名前には「メ」「モ」「ノリ」と言う語尾付けられていました。

長いものでは、若布(わかめ)滑海藻(アラメ)凝海海藻(コルモハ)、

短いものは、「苔」や「菜」の字をあてて、ノリと呼びました。

滑(ぬら)が転じた言葉で、ヌメリのある海藻全般のことをそう呼んでいました。

       

その後、平安末期からは「甘海苔」と使われたり、紫菜(のり)や神仙菜(あまのり)とも書かれたり、、、

江戸時代後期に海苔(のり)となり、現在の海苔だけを表すようになりました。

海苔ヒビのうつりかわり

「ノリヒビ」は江戸時代から明治・大正まで木の枝を使っていました。

ところが養殖場が大森、品川をはじめ、千葉など全国に広がるにつれ木の供給が間に合わなくなりました。

竹は滑らかなので海苔の成長が悪く、また、重くなるとしなり海水に浸るため(日光にも当たる時間が短くなり海苔の色、香りが落ちる)敬遠されていましたが、経済的優先性から昭和のはじめには「竹ヒビ」が90%を超えるようになりました。

(昭和8年には東京で5百万本の「竹ヒビ」が立てられていました。

しかし、竹材の不足と作業上の難点からさらに研究が進められ、現在のような「網ヒビ」が使われるようになったのです。

色々なナゾと浅草ノリの名付け親。

色々なことから浅草で海苔が収穫可能だったのは(1532~1580)頃の戦国時代あたりまでと推測される。

しかし、実際に浅草辺で海苔が採れ、売られたという記録は皆無なのだ。

それに、海苔はまだまだ庶民のものとは言い難かった事実と照らし合わせて考え、仮に浅草で採れ、売られていたとしても「浅草海苔」という商品名が付いていたとは信じ難い・・・。

 

では浅草ノリとはだれが名付けた・・・!?

安土桃山~江戸時代(1596~1614) 徳川家康は浅草寺の復興をはかろうとして、五百石の寺領を寄付。

江戸市街地の大造成を行い、諸国から沢山の人々を一か所に集め、1620年代には人口が早くも100万人に!!!

浅草寺周辺も急速に往時の繁栄状態にもどり、賑わう門前市において、「是ヲ浅草海苔ノモ云」(これをあさくさのりともいう)なる説明が!

名物ではなかったが、江戸時代初期には何とも強烈な印象を人々に与えたらしく、いつのころからか「浅草海苔」なる言葉が生まれていった。

 

東叡山(とうえいざん)の末寺として登録された浅草寺からは、かねて恩義のある天海大僧正(てんかいだいそうじょう)(←天海大僧正は浅草寺復興を家康に勧めた)

に新鮮な海苔を寄進した。

天海は諸大名や高級武士に「浅草ノリ」として供し大いに称賛を受けた。

この事実はどうかはともかく天海が浅草から取り寄せるノリを好みかつ、贈答に用いたことは間違いない。

なぜなら、その後浅草にはノリ問屋が次々に名乗りを上がるがそのうちの5件までが「東叡山御用」という看板をあげていたことが残っている。

浅草ノリという言葉を広めたのは、天海大僧正なのかもしれない。

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